班長 岩井 茂樹
鄭若曾『江南経略』(1566年序刊本)巻一に収められた「倭寇海洋来路之図」 |
16世紀の東アジアは社会経済の転形期を経験した。日本における銀の増産やポルトガル人を嚆矢とするヨーロッパ人の来航などがその要因であった。利益の追求に促されて、人々は海洋に乗り出して交易に従事した。「天朝」をもって自認する中国の王朝は海禁と朝貢制度を有力な手段として通交秩序を維持しようとしてきたが、この中国中心の秩序は私的な交易の拡大によって動揺することになる。
それを禁圧しようとする強硬策は「海商」を「海賊」の側に追いやるという結果をもたらした。また、陸上の辺境においても、関門における互市を槓杆として商業ー軍事集団が形成された。朝貢からも貿易からも排除されていたモンゴルは通貢を求めたが、明朝朝廷がこれを峻拒したため、侵攻と略奪によって圧力を加える策を選択した。こうした情勢のなかで、言語とエスニシティを超えて、国家支配の枠から外れた人々が集団の一翼を担うという現象が現れ、軍事的な衝突もしばしば発生した。近世の社会と国家は、危機を揺籃として自らを形づくることとなった。
この時代、外からの脅威に対処するという観点から、中国では域外についての知識への希求が高まり、かつてない精度と情報量をもつ著述が出現した。1550年代、蘇州出身の鄭若曾は、倭寇防衛の責務を担った総督胡宗憲の幕下にあって、情報の収集と戦略の策定に従事し、『江南経略』や『籌海図編』などを編纂した。この共同研究班は、鄭若曾および同時代人の著述活動に焦点をあてて、当時の域外情報の流通と集積の様相を明らかにする作業をつうじて、転形期の東アジアの地域間交渉の特質を理解することを目的とする。
班員 金 文京、矢木 毅、宮宅 潔、村上 衛、山﨑 岳、高井たかね |