トラウマ経験と記憶の組織化をめぐる領域横断的研究-物語からモニュメントまで

班長 田中雅一

トラウマ経験と記憶の組織化をめぐる領域横断的研究
トラウマ経験とは、突然わたしたちの心に生じる立入禁止地区のようなものだ。有刺鉄線にまきついている蔦は、トラウマ経験を馴化しようとするエロス的情動を表していないだろうか。スリランカ・コロンボの風景から。

社会人類学(現人類学誌)部門は、過去20年にわたって主体化をめぐる研究班をなんどか組織してきた。それらは、1)暴力(1990-94)、2)主体・自己・情動構築(1994-98)、3)フェティシズム(2000-06)に関わる研究班で、トラウマ経験をめぐる本研究(2010-15)もこの系譜につながる。

それではなぜトラウマ(心的外傷)なのか。トラウマの原因は、幼児のころの虐待、家庭内暴力、学校でのいじめ、暴力行為、とくに戦争での経験、犯罪や事故、自然災害などである。本研究では、トラウマをより広い意味で苦悩(suffering)や痛み(pain)とみなす。この苦悩にたいし人びとがどのような形で対峙し、克服しようとしてきたかについて考えてみたい。この過程をここでは組織化と表現する。トラウマは一般に心理学や精神医学が対象とする問題領域であるが、組織化という過程はこれらの領域にとどまるものではない。広く、カウンセリングを含む医療、芸術、宗教、司法、メディア、コミュニケーションなどの分野における研究と実践領域にまたがる。

哲学者のElaine Scarryは、本研究発足に際し、重要な指針となったThe Body in Pain: Making and Unmaking of the Worldという書物で拷問や戦争の記録を丹念に読み解き、痛みが「世界」の崩壊につながる体験であることを明らかにする。そうした痛み・苦痛あるいはトラウマを克服していくにはどうすればいいのか。Scarryは、芸術・文学、司法(和解)、医学の3つの領域に世界を再構築する可能性を求める。本研究では、このScarryのテーゼを多角的に検討し、人類社会の新たなヴィジョンを提示したい。

トラウマやPTSDなどの医療用語が、日常的に使われるようになって久しい。心理学や精神医学用語が普及していった理由は、わたしたちの世界が脱神学化してきたことを意味している。そのような状況でトラウマについてあえて考察することは、現代日本社会の分析にも貢献することになろう。

所内班員
石井美保、伊藤順二、小池郁子、高階絵里加、立木康介